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1870年6月15日、「米100俵の日」記念日
投稿日 2019年6月15日 00:00:00 (今日は何の日ですか)
・1870年6月15日、「米100俵の日」記念日
・この「米百表の精神」を次世代に伝えていくことが目的で、長岡市が1870(明治3年)6月15日の国漢学校新校舎開校の日を記念して、「米百俵デー」に制定した。
・長岡市米百俵財団は、「米百俵」の精神を普及・啓発するため、「米百俵デー市民の集い」を長岡市と共に毎年開催している。
・この日に長岡市米百俵財団が、人材育成に大きく貢献した個人・団体に米百俵賞を贈呈している。
・米百俵とは、幕末から明治初期にかけて活躍した長岡藩の大参事小林虎三郎藩士による教育にまつわる故事を言う。
・この逸話は、現在の辛抱が将来利益となることを象徴する物語として引用されている。
・幕末の戊辰戦争の一つ北越戦争で敗れた長岡藩は、7万4000石から2万4000石に減知され、実収にして6割を失って財政が窮乏し、藩士たちはその日の食にも苦慮する状態であった。このため窮状を見かねた長岡藩の支藩三根山藩から百俵の米が贈らた。
・藩士たちは、これで生活が少しでも楽になると喜んだが、藩の大参事小林虎三郎藩士は、贈られた米を藩士に分け与えず、売却の上で学校設立の費用とすることを決定した。
・藩士たちはこの通達に驚き反発して抗議したが、それに対し大参事小林虎三郎藩士は、「百俵の米も、食えばたちまちなくなるが、教育にあてれば明日の一万、百万俵となる」と諭し、自らの政策を押しきった。
・この米百俵の売却金によって開校したのが「国漢学校」であり、洋学局と医学局が設置されました。この学校は士族によって建てられた学校ですが、一定の学力に達した庶民の入学も許可された。
・国漢学校は、現在の長岡市立阪之上小学校、新潟県立長岡高等学校の前身となった。
・なお長岡藩江戸上屋敷にも国漢学校があり、長崎に医術の修行のため内地留学も出していた。
・この物語は「米百俵の精神」という言葉になり、小泉純一郎内閣総理大臣が、小泉内閣発足直後の国会の所信表明演説で引用されて有名になり、2001年の流行語大賞にも選ばれた。
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